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COTOPICS コトピックス

vol.122018年4月号

きょうの架け橋

対談:株式会社京都𠮷兆 総料理長 徳岡邦夫 × 当社代表取締役 川口聡太(2/3)

川口「それで、どうなったんですか?」
徳岡「冬の朝、座禅中にもう眠くて寒くてたまらない日があったんです。そうしたらいつの間にかトランス状態になっていたようで、山から朝日が昇ってくるようなイメージが沸いてきたんです。その中で『今の状況ではみんな損してるな。俺がミュージシャンになって幸せになる人がいない』とふと思ったんです。ミュージシャンになって多くの人を幸せにしたいと思っているのに、こんなに周りの人みんなが苦しんでいるのはおかしくないか?と。じゃあ、皆が幸せになる道はどこにあるのかと考えたら『自分が𠮷兆を継ぐことだ』と、すっと得心がいったんです。料理は好きだし、それが自分にとっても家族にとっても一番幸せなことだと思えたこの瞬間が、私なりに悟りをひらいた瞬間だったのだと思います」
川口「つらい修行を乗り越えた先の答えは、家業だったんですね」
徳岡「ですがただ継ぐのではなく、『日本の食を世界に通用するものにしたい』と思ったんです。ミュージシャンになりたいと思ったのも、日本の音楽をもっと世界で通用するものに高めたいという目標があったからなので、料理人になるからには世界を見据えたいと考えました」
川口「料理の道に進むと決めたその瞬間に、もう世界を視野に入れていらしたのですか」
徳岡「はい。そして世界に近づくために何をすべきか考えた時に、自分の知る中で一番世界に近い人のそばへ修行に行きたいと決めました。誰であろう、祖父で𠮷兆創業者の湯木貞一です。自分の決心を老師と父に伝え、祖父のいる大阪の𠮷兆 高麗橋本店(現・高麗橋𠮷兆)に入店しました」
川口「なるほど。おじい様の姿から学ばれたことは多かったのでしょうね」
徳岡「そうですね。傍で働きながら、一言でいうと情熱を受け取ってきたと思います。湯木の言葉に『工夫して心砕くる想いには、花鳥風月みな料理なり』という言葉があります。どれほどお客様のことを想って料理を作っても、それが届くとは限らない。それでもすみずみまで手間を惜しまず工夫を凝らし、作り続けて行かねばならないのが料理なのだ、という意味です。己の人生をかけると決めたものを追求していく情熱あるのみだと、当時九十歳を超えようかという湯木が、全身で教えてくれました」

「人がすべて」-老舗の改革と受け継ぐ情熱

川口「京都𠮷兆に戻られたのはいつ頃ですか?」
徳岡「総料理長になったのは1995年です。バブル景気が終わり厳しい状況に追い込まれつつある時でしたので、農家を回って生産者から良質な野菜を直接仕入れたり、あまり交流のなかった板場と接客スタッフの意見交換の場を設けたりという社内改革に着手しました。採用に力を入れだしたのもその頃です。企業を支え、前に進める原動力となるのは人。『人がすべて』をモットーに少しずつ社内の体制と環境を整えていくと、お客様からも『サービスも食事も、若返って質が良くなっている』とお褒めいただけることが増えていきましたね」
川口「お客様を想う地道で丁寧な改革が、バブル崩壊後の荒波をも超えさせたのですね」
徳岡「いつ、どんな時であっても私たちが変わらず持ち続けているものは、創業者から伝わるお客様への情熱ですから。お客様は、ご一緒される方との仲を深めたいからわざわざ料亭へ足を運ばれる。これはいつの時代も変わりません。ですが食に対する価値観や味覚は、時代によって変わります。私たちは、その変化よりもさらに早いスピードで前に進んでいかなければ、お客様に満足していただけるものは提供できません。お客様どうしの仲を深める料理や隅々まで行き届いたサービスを提供するには、世の中の様々な知識を持ち、視野を広く持つことが大切。だからこそ、私たちの仕事は『人がすべて』なのです」

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