COTOPICS コトピックス
vol.92015年3月号
対談:株式会社永楽屋 十四世 細辻伊兵衛× 当社代表取締役 川口聡太(1/3)
- 十四世 細辻 伊兵衛
- 株式会社永楽屋 代表取締役社長兼手ぬぐいアーティスト
1964年生まれ。卓球選手として実業団に入社後、1985年アパレル業界へ転身。独立起業後に出会った十二世当主の長女と1991年に結婚し、永楽屋へ入社。1999年、十四世細辻伊兵衛を襲名、永楽屋の事業改革に取り組み、高品質な復刻手ぬぐいを中心に意欲的なブランド展開を行っている。
このコーナーでは、京都の伝統文化を担う方々へのインタビュー特集をお届けいたします。文化と人々を繋ぐため、後世へ残していくために何を考え、感じ、活動されているのかをお伝えしていきます。
今回ご登場いただくのは、「永楽屋細辻伊兵衛商店」や「RAAK」など、意欲的な経営展開で手ぬぐいブームを仕掛けた十四世 細辻伊兵衛氏と、当社代表 川口聡太の対談をお送りいたします。
松の内も明け、新年のにぎわいも落ち着きを取り戻した1月の午後。細い雨がその静かな佇まいをより引き立てる京都・室町通の永楽屋本社で、細辻氏と川口の対談が始まった。
絶望を見てこそ続く家業
川口「永楽屋へは、婿養子になってから入られているんですよね。それまではどんなお仕事を?」
細辻氏(以下、細辻)「はじめはたまたま、卓球のスポーツ推薦で実業団のあるトヨタグループの会社に入ったんです。でも、一生大きな会社の一部として働くのは性に合わないなと思って、もともと興味のあった業界―京都の小さなファッションブランドに入社しました。その後独立してやっていたとき、同じファッションビルで働いていたのが今の奥さん」
川口「永楽屋さんの娘さんだとは?」
細辻「ほんま、全く知らなかったです」
川口「婿養子に入って、いずれは『細辻伊兵衛』を襲名しないといけないということに抵抗はなかったですか?私だったら、今の自分の名前も気に入っていますし、何というか…今までの自分から変わってしまうのか、と思ってしまうんですが」
細辻「そんなに抵抗なかったですね。別にいいかなって(笑)代々続いている名前の方がいいかなって」
川口「昔のご友人には、何と呼ばれてるんですか?」
細辻「いやーもう最近、みんな伊兵衛って呼びますね。本名か?って聞かれるのが嫌で、戸籍も変えているので」
川口「それは思い切られていますね!新しい事業を次々展開される、伊兵衛さんらしいです。でも、永楽屋に入社された当時は大変だったとか」
永楽屋 細辻伊兵衛商店本店
細辻「そうなんです。うちは織田信長公の御用商人の時代、1615年の創業からこちら、代々綿布商をやっているんですが、やはり戦後、洋装化で綿の着物の需要が減り、商売替えをしないといけなくなりました。それでノーブランドタオルの販売に乗り出したんですが、どんどん売上が落ちてしまって。立て直すために家を売り、事業縮小して1999年から私が経営を始めました」
川口「事業の元手を作る、というよりそうするしかなかった状況ですか」
細辻「そうですね。でもね、商売は絶対に一度絶望を感じたほうがいい。いいことばかり続かないので。実際、永楽屋は絶望の連続なんですよ。蛤御門の変で全焼するわ、東京遷都で京都経済が大打撃受けるわ、第二次世界大戦の時は贅沢禁止令で大打撃やわ強制疎開で立派な町家潰されるわ」
川口「そんなにですか!」
細辻「今の三条東洞院をほぼ占めるくらいの大きさで、永楽屋の町家があったんです。(※1)でも爆撃されたときに郵便局とNTTへの類焼を防ぐために潰したみたいで。そのあとも国際会議場建設のために電話局建てなあかんようになって、土地をお譲りしたんですよ」
川口「じゃあ、国立京都国際会議場があるのは…」
細辻「うちのおかげ!(笑)京都経済発展のためにはしょうがないと、祖父が一肌脱いだそうです。400年の間、何度も家業消滅の危機はあったんです。その度に時代のムーブメントを掴んで復活してきたんです」
(※1)永楽屋の町家…現在の御池通りから三条通まで、約4~500坪が細辻家の所有地であった。ここに母屋と社屋が建っていた。