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COTOPICS コトピックス

特別号

ブリッジコーポレーション創立25周年企画

対談:当社代表取締役 川口聡太×当社プロデュース事業本部長 丸尾昇司

このコーナーでは、ブリッジコーポレーションで会社の創成期より約20年間一緒に歩んできたメンバーである当社代表川口聡太とプロデュース事業本部長丸尾昇司に2人の出会い~ターニングポイント、今後の展望、ブリッジコーポレーションの25年間にわたる変遷についての対談をお送りいたします。

当社代表取締役 川口 聡太
京都市出身。京都大学工学部卒業。大学時代に留学先の上海にてITベンチャー起業、その後ブリッジコーポレーション入社、2000年より現職。
当社プロデュース事業本部長 丸尾 昇司
神戸市出身。京都大学法学部卒業。大学卒業後、ブリッジコーポレーションに入社。IT業界の楽しさは「変化」です。

二人の出会い

川口「知り合ったのは大学入学後だったけど、大学に入学するまでに共通の知人で繋がりはあったんだよね。のちに京大のテニスサークルに僕が新入生として入って、正式にはそこで初めて知り合いました」
丸尾「そうですね!その時僕は2回生でした」

お互いの第一印象は?

川口「新歓コンパで丸尾さんが当時の彼女と一緒にいるところを目撃したんですよね。ベロベロになってる女子に絡んでいる丸尾さんっていうのが最初にあった印象ですね」
丸尾「夜型ってイメージかな!?(一同笑い)僕の家に来て夜な夜なスーファミしてるんですよ。僕は眠くて寝るんですけど、みんなが集まるいわゆるたまり場でしたね」
川口「サークルに入っていたのは2回生までだったんですが、3回生になってサークルの繋がりが無くなっても丸尾さんの家でゲームをやってました!」

中国への留学

丸尾「その後は司法試験を受けるための準備してましたね」
川口「僕は4回生になり、夏前くらいに休学して中国に留学。その留学直前にブリッジの創業者にあったんだよね、1996年の4、5月かな。留学前にアルバイトみたいな感じで遊びに行ってたんですよ。プロバイダーの会社だったんだけど、ピカピカ光っている機械が沢山置いてあってすごく興味がわきました。それがブリッジを知るきっかけでした。その後、在留日本人に対する情報発信をする会社(上海エクスプローラー)を起業することになり、その会社のWebデザインをしていたのがブリッジなんです。そこからブリッジ創業者たちと仕事をすることになったんですよね」

日本へ帰国、創設者たちとの再会

川口「約1年間、大学と中国の事業を行ったりきたり、1年遅れて卒業したのは1998年のこと。家庭の事情もあり、事業は続けながら日本に帰り、創業者たちに誘われてブリッジで仕事をすることになりました。大阪事務所だけだったんだけど、そこから1年後に京都事務所が設立されてサーバー事業が始まり、エンジニアの仕事の下請けのような、デザインをもらってシステムを当て込むような仕事が多かったですね。その1年後に社長になってみないかということで、2000年4月に社長に就任しました。同年10月に事務所を移転することになります」
丸尾「その移転をアルバイトで手伝ってましたね。その時はブリッジに入るつもりはなかったんですけど、翌年に改めて社員として会社に入りました」
川口「丸尾さんが入る直前は4人くらいで仕事をしていて、だいたい20代後半のメンバーで会社としてもとてもフレッシュな感じでしたね。そのあたりでスズキ自動車の全国のディーラーサイトを作ってほしいって仕事が入ってきてそのころに売り上げが1億を超えて、人がどんどん増えていったころです。仕事もとんとん拍子で代理店から流れてくるし、仕事と人の増加でディレクターっていう存在が必要なことに気づき、現ディレクターのような職種が加わりました」

現在の事務所へ移転、営業

川口「そこから順調に会社が成長していき2008年。現京都オフィスである烏丸に事務所が移りました。メンバースキルや人の入れ替わりがあり、会社自体のレベルが上がっていくなかで、システムメインの仕事から徐々にWeb制作メインにシフトしたんですけど、それまで営業がいなくて僕だけが営業の役回りをしていました。受注プロセスってものがそもそも存在しておらず、このあたりから現営業のような職種も加わりましたね。(余談ですがこのあたりで上海エクスプローラーと合同で東京事務所設立しましたね。)営業のはしりが出来て今のブリッジの形にぐっと近づき、年商も2億から3億へ、社員も20人、30人へ」

会社の転機

川口「2008年の暮れから2009年にかけてリーマンショック。これがひとつのターニングポイントでした。会社のステージを変える、アクセル踏んでいきますよ!って時にリーマンショックが起きてそこから毎月1000万くらいの赤字経営です。会社の合併や拡大からのリーマンショックでもうぐちゃぐちゃになっちゃいました。年がら年中採用活動が落ち着かず、いろんな意味で濃い時代でしたね」

25周年やってきた中で確立されたマイルール

丸尾「自分の中で印象に残ってる出来事は、東京と行き来した後に開発として京都に戻ってきたときですね。社内の雰囲気がすごく荒んでいた時期があったんですけど、上長がいつも疲れた顔で仕事に向かっていたことが大きかったのかなと思います。大それたポリシーではないけど、しんどい・辛い姿を社内で見せないこと。一度京都から離れて、客観的に社内を見ることができたからこそ気づけたマイルールです」
川口「採用についてのことですが、面接では対話性、可能性を考えながら採用をしています。ブリッジのスタイルに合う人というものよりも、可能性を広げられる人を重視して採用活動を進めるようになりました」

ターニングポイントがきっかけて起きたマイルール

川口「自らが主体となって動くのではなく、現場に任せることを意識するようにしています。以前は現場の指揮をとっていましたが、指示を出し続けていては現場が育たないと感じるようになり、原則社員にチャンスを与えるという意味で現場を離れることを決めました。指揮を執ることを辞めたことでしばらく会社が混乱状態でしたが、転居で強引に組織の切り替えを図りましたね。仕事をとってくることに関しては自分の責任、自分が全部やらなきゃと思っていましたが、数字があげられなくなったことに関して自分が仕事ができなくなったと思う局面があり、社員の力を発揮してもらわないと会社が育たない、部署自身が考えて動かなければ育たないと気づきました」

現在のブリッジメンバーに対して感じる事

川口「なるべくポジティブな人を採用したといってもそれだけではなく、常に今がベストと思えるような社員たちの構成です。優秀な人が入ってきたときはとてもワクワクする、エネルギー的には今がベストかな!柔らかく明るい社内の雰囲気が印象のメンバーですね。雑談が増えたこと、コミュニケーションやアイスブレイクの増加が社内の雰囲気が大きく変わった要因だと感じます。あとは多様性が出てきたとこですかね。働き方、年齢層の幅が大きくなり、生活のステージが違う者、外国籍など色々な特色を皆が持っています。マネジメント層がしっかりしてきたので自然と社員の雰囲気もまとまって来ましたし、 さらに5年くらいでまだまだ変わっていくのではないかと思いますね。キャリアビジョンを描ける人間を育てること、大善志向、教育的視点を持つ人間になることをさらに意識してメンバー全体が育っていって欲しいです」

今後の展望25年以降のブリッジ

丸尾「私がブリッジで働き始めたのはインターネットが世に普及しはじめた黎明期で、常にカオスでしたがとても成長を実感できる現場でした。抽象的ではありますが、辛くしんどいことがあっても若者がワクワクを感じられる現場を意識して、会社や業界のステージアップ、自分のフェーズも一緒に変わっていくことを実感できる環境づくりを手助けする会社にしていきたいです」
川口「ブリッジは正直この10年、客観的に見て成熟期に入っています。再びそこから成長の波に乗せられるかがポイントですね。100人の経営者を作るという個人の目標がありますが、会社的にも人材育成をメインにしていきたいと考えています。新しいもの、新しい事業を生み出せる組織にできれば、ひとりひとりの水準を上げ個性を伸ばすことにつながる。自分自身仕事を楽しむ、ワクワクする仕事へ。個の能力開発を手助けし、ひとりでも多くの社員を育成できればと思います。多様性が強まっていっている、個を伸ばすことがイコールになっていっていますね!!!」

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