COTOPICS コトピックス
vol.162021年11月号
対談:楽焼 長樂窯次期4代 作陶家 小川裕嗣×当社代表取締役 川口聡太(1/3)
このコーナーでは、京都の伝統文化を担う方々へのインタビュー特集をお届けいたします。文化と人々を繋ぎ、後世へ残していくために何を考え、感じ、活動されているのかをお伝えしていきます。
今回は長樂窯次期4代・小川裕嗣さんと、当社代表川口聡太の対談をお送りいたします。
- 小川 裕嗣
- 楽焼 長樂窯次期4代 作陶家
- 1978年、3代小川長樂の長男として誕生。名古屋造形芸術大学彫刻コースを卒業後、京都市産業技術研究所を経て作陶の道へ。華道や能楽、アートやデザインなど、領域をこえたコラボレーションやインスタレーションに積極的に取り組みつつ、茶の湯から始まる楽焼の可能性を追求する。
https://ogawachoraku.com/
梅雨のしっとりとした空気を含み、松の葉をすべる水滴が苔をうるおす日。京都・清水焼の郷にある長樂窯の茶室や作業場を、小川氏自ら案内いただきながらお話を伺った。
利休の世界を映す
楽焼って?
楽焼の歴史は、千利休の茶の湯の世界観をあらわす、プリミティブで素朴な趣きの長次郎茶盌にはじまります。陶器の中では柔らかい軟質の施釉陶で、日本独自のやきものです。
楽焼は大きく「赤楽」と「黒楽」に分かれます。「赤楽」は豊臣秀吉が建築した聚楽第から掘り起こされた聚楽土、または京都・伏見の黄土を用いて薪で焼いた大地の色を表すやきもの。「黒楽」は京都の鴨川で採れる加茂川石を砕いて塗り重ね、備長炭をふいごで熱した高温の中で、1品ずつ焼成し生まれる自然石の色を表すやきもので、いずれも窯から引出し急冷することが特徴です。
長樂窯は1906年、初代小川長樂 大治郎により清水寺のお膝元である五条坂で開窯。より良い制作環境を求めて平安神宮近辺の岡崎、そして現在の清水焼の郷へと拠点を移しながら楽焼の技術と心を継承してきました。
小川氏(以下 小川)「楽焼はろくろを使わず、手づくねといって土と手の対話からかたちを生み出すのが特徴です。まずは見ていただきましょうか」
川口「今、作って下さるんですか?!」
小川「途中までになりますが…まず、土を円形に延ばしたら、周囲から少しずつ立ちあげ、手の中で抱え込むように盌の形へと導いていきます」
川口「おそらくとても難しいことを、簡単にされていますね…」
小川「この手づくねでは、水をすくい上げるように茶盌を両手で包む、『いのちをいただく』自然なかたちを大切にしています。この禅宗的思考は、茶の湯に深い影響を与えていますが、楽焼の根底にも同じ思想や美意識が流れているのではないかと私は考えています」
川口「いえ、その通りなのではないかと。見ていて神聖な感じがします」
小川「ここから室(むろ)と呼ばれる中で数日乾燥させて半乾きにしたら、鉄ベラで削り出していきます。このヘラは鋼の板を七輪で炙って自分で作るんですよ」
川口「だから最初はこんなに分厚いのですね。ここからどれくらい削るのでしょう?」
小川「ものによりますが、7割以上は削ります。フォルムもさることながらお茶を点てる空間である「見込み」の広がりを重視して、ひとヘラひとヘラじっくり削ります」
川口「最終的なかたちは、この土を大まかに成形する段階で決まっているのでしょうか。それとも削る工程で決めていくのでしょうか」
小川「成形の段階で最終的なイメージはある程度出来上がっていますね。手の形に自然と沿うように、無意識的に作る手づくねと、意識的にかたちを削り出すヘラ削り。二つの相反する作業で生み出されるのが楽焼です」
自然と心を決めた
やきもの誕生の瞬間
川口「一番最初に作った作品のことは覚えておられますか?」
小川「何が最初かと言われると難しいですね。作家としては最初の展覧会でご購入いただいた茶盌ですが、私個人としては…祖父の隣で土遊びをしていた時に作った怪獣とかではないでしょうか?」
川口「幼いころから仕事場にはよく出入りされていたのですか?」
小川「小さいころまでですね。毎年1月4日に仕事始めの行事を行うのですが、今年は息子を膝にのせて土に触らせました。私もきっと、仕事場に入ったのはそれが最初ではないかと思います。だんだんやんちゃになって土を投げたりすると、『土を大切にしろ!』って叱られたりして。仕事場のピリッと引き締まった空気が分かるようになってくると足が遠のきました。うちは、特に黒楽を焼くことは神事扱いなんです。小ぶりな作品1つしか入らない小さな窯に一盌だけ入れ、風を送り急激に昇温させるので火柱が高く上がり地響きのような音がする。子ども心に炎に対する畏怖を抱いていましたね」
川口「では、かなり小さなころから窯は継ぐつもりでいらしたのでしょうか」
小川「はっきり意思表示をしたのは高校2年生のころですが、それまでも特別嫌だと思ったことはないですね。でも小中学生のころは普通に部活を楽しんだりと、自由にさせてもらいました。父には継げと言われたこともありません。ただ、ものづくりは好きでしたし、漠然と美術関係の仕事がしたいと考えていました。高校生になると土づくりや窯焚きの手伝いをするようになり、父が窯に相対する姿を見て、自然と継ごうと思えていました」
川口「身近に仕事ぶりを見てきたからこそですね」
小川「とはいえ、すんなり決心がついたわけではなく…大学では彫刻を専攻し主に自由度の高いFRP(樹脂)を用いていました。これを成形する際はガラス繊維やシンナーを使うので、友人には『アトリエに1時間もいられない』と言われるような現場で制作していました。そんな中窯焚きの手伝いに帰省した折、改めて黒楽の窯から茶盌を引き出すようすを見て、生命の誕生を見ているようだと感じたんです。その時にふと、人工の素材より自然の循環の中に身を置いてものづくりがしたい、という気持ちが湧いてきました。卒業したらやきものの道に入ろうと、心が決まった瞬間でした」